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平清盛

こちらのブログは終了しました。

今は平清盛にて執筆中です。

御用とお急ぎでない方はぜひ覗いていってくださいませm(_ _)m
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保科正之の人物像その8

本日は保科正之の人物像その8です。

会津に於いて政治手腕を発揮した正之ですからさぞ会津にべったり居座ったと思いきや、家光の補佐役や家綱の後見役として幕府の中心人物となった正之ですから殆んど会津に帰れることはありませんでした。

それでも名君と言われたのは、常々会津の民を慈しむ心を持ち続けたからだと思います。しかも正之のあっぱれ名君伝説は会津だけではありません。有名なところでは明暦の大火事の後の仁政が挙げられます。

「火事と喧嘩は江戸の華」なんてことを言いますが、さすがに江戸の町の60%を焼きつくし、江戸城の天守閣も焼け落ちたそうですから江戸の華では済ませられません。

死者・行方不明者10万人以上の大惨事に、正之は会津藩の年収に匹敵する金額を再建費として庶民に与えたそうです。当然幕閣の重鎮達は「幕府のご金蔵が空になってしまう。有事の際にはどうする」と猛反対です。

しかし正之は「今がその有事である。このような時に庶民を助けるためにこそ官庫の貯えはある」と一人一人説き伏せたということです。もちろんその後道幅を広げたり、火除け空き地を設置するなど火事に強い大都市「えど」を作ったのは言うまでもありません。

今回保科正之の人物像を書いていて、東日本大震災で被災された方の救済が遅々として進まないことに、憤りを通り越して呆れてしまうtaigaでありました。


尚本日を持ちまして「江〜姫たちの戦国へGo〜」は最終回となります。1年間ありがとうございました。心から感謝申し上げますm(_ _)m

新しいブログ平清盛はこちらです。

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保科正之の人物像その7


本日は保科正之の人物像その7です。

江戸時代初期の3名君と言われた正之ですが、幕府の重要人物ですから地元会津にいられるのはそんなに多くありません。

それでも名君と言われたのは、弱い民を守るための政だったからに他なりません。所謂仁政ですね。

例えば前領主が領民を苦しめていた「負わせ高」という耕作不可能な土地まで田畑と見なして年貢を課すという制度の廃止です。

よくテレビの時代劇で悪代官がやりそうな「負わせ高」ですが、これを廃止すると2万石以上の減収が出るけど、民のためだから致し方無いと正之は決行したのですが、逆に隠していた(前領主の圧政に苦しんでいたため)田畑を皆が正直に申告してくれたので3千石の増収になったということです。

また年貢米とは別に藩が備蓄米を買い上げて「社倉」を制度化したのも正之です。これは先年の寛永の大飢饉で会津藩から多数の死者が出たことも根底にあったのだと思います。

やがてこの「社倉」のおかげで飢饉が起こっても会津藩からは死者が出なくなったということです。これは後の世に寛政の改革を取り仕切った松平定信の規範となったと言われています。

また今日の年金制度と同じような仕組みを考えたのも正之のようです。飢饉の不安から解放され、歳を取って働けなくなっても米を与えてもらえるということで、会津では平均寿命が伸びて人口が急増しました。

キャバクラへ行った金まで政治活動費として、政治資金に計上するどこかの政治家とは大違いですね。

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保科正之の人物像その6

本日は保科正之の人物像その6です。

謙虚で誠実なことから、兄・家光からも絶大な信頼を得た正之ですが(もう少し早く世に出てくれば、ひょっとしたら忠長事件もなかったかも)、家光の死の床でもやはり嫡男・家綱の行く末を正之に託します。

もちろん正之は家光の手を握り「ご安心くだされ」と返答します。すると家光は微かに笑って「これでもう思い残すことはない」と昏睡状態となり、やがて静かに息を引き取りました。

何気ない兄弟のやり取りでありますが、義理がたい正之はそこまで自分を信頼してくれた兄・家光に感激して、後に有名な「会津家訓15箇条」を定めました。

その第1条には「会津藩たるは将軍家を補佐する存在であり、藩主が裏切るようなことあらば家臣はそれに従ってはならない」と記されています。

それ以来会津藩ではこれを藩是として、歴代の藩主は心の拠り所として様々な場面で決断を下してきました。ただしこれが幕末の会津の悲劇となったことも紛れもない事実です(松平容保の人物像その3参照)。

こうして保科正之は徳川光國(水戸の黄門ちゃま)・池田光政(江の最終回で減封された子役。当時は池田幸隆)と並んで江戸時代中期の3名君と呼ばれるようになりました。

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保科正之の人物像その5


本日は保科正之の人物像その5です。

誰からも愛された正之は実兄の3代将軍家光からも愛されました。何かあると正之、正之と頼りにされ、周りから「また正之の大安売りが始まったよ┐('〜`;)┌」ってな感じです。

と同時に高遠3万石の小領主から山形20万石、会津23万石と次々と加増されていきます。しかも会津は幕府にとって東北の抑えの重要地でもあります。

そしてその期待以上のことを成し遂げ、もう正之は押しも押されもしない幕府の中心人物となったのです。

もちろん将軍家の血筋ですから、親藩として「松平」の性を名乗ることや「葵の紋」も許されたのですが、正之はこれを固辞します。

何の得にもならないのに愛を持って養育してくれた保科正光の恩義を終生忘れなかったからです。

斯くして正之は会津・松平の祖でありながら保科性を貫き通したということです。因みに松平性と葵の紋を最初に使用するようになったのは正之の孫の正容(3代目)になってからのことです。

再来年の大河に決まった「八重の桜」もいいですが、東北の人に元気になってもらいたいという意味では、感動秘話の多い「保科正之」も良かったかなと思うtaigaでありました。地元では保科正之の誘致の方が盛んでしたし。

今日から坂の上の雲が始まります。



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